高野山金剛三昧院の末寺にして宗派は真言宗にて般若山と称す。

筑波山の僧侶徳一上人(とくいちしょうにん)の草創にして伊達蒲生時代までは置賜地方真言宗総取締をなし、沖金剛院、矢ノ目観照寺、外の内妙徳寺、中田威徳寺、下小菅延長寺など末寺11ヶ寺を有した。

羅災のため古い記録が消滅し享保年間(1716-1736)以前の事蹟は詳かでないが元禄4年(1691)2月当寺第15世の僧覚雅宗槊の記した庭前の鐘銘に奥州米沢城北塩野巴般若山延徳寺はその上徳一大士の創設にして其の伽羅壮麗なりき、然れども中世火なりて寺門寝寒云々」とあり、当時以てしのぶべきものがあったのである。その凡鐘も大東亜戦争末期の昭和19年供出したので今は残っていない。蓋し徳一は法相宗の僧で後真言宗に改めたものと見られる。

延徳寺はもと塩徳寺と称したが延徳年中(1489−1492)寺名を改められたと云い伝えられている。享保4年(1719)高野山より来りし18世宏範本堂の再興を行ったものである。第20世官祐代宏範の木像を彫刻す。高野山より金を入れて持ち帰ったとの宝塔及び五重塔等宝物として現存している。文化年間法印良雄大乗寺から同居し托鉢して得たる金100両を基金として其の利子をもって細民を救済深く感謝された。

安政年間(1854−1860)第40世宥鎮の代庫裡を再建したもので昭和42年信隆の代に本堂及び庫裡の屋根をトタン葺きに改修した。創建以来現住職稲葉信隆氏で48世延々と続いている。

「昭和43年発刊 塩井郷土誌 塩井公民館内塩井郷土誌編集委員会」より