県道米沢宮内線路傍に美女塚がある。小高き丘の上に何時の頃建てられたのかわからないが風雨にさらされて石の地蔵尊が川辺の美男塚に相対して鎮座している。

美女塚は色々な伝説が残っているが何れが真実であるか判然としない。小笠原長時が桔梗原に武田信玄と戦って敗れ信濃を去って会津に来り芦名家に寄食して妾を娶ったところ従者と通じて長時を殺し其の妾出奔して米沢に来て死亡し此処に埋められた。

又一説には切支丹の美女を葬ったとするもの、又近き頃直江が遺器を埋めて其の石櫃尚塚下にありなどと伝えられている。

美女塚はその昔その塚も広く、桜の木も多くあったとのことだが明治17年の道路改修で縮少され現在は市有地として37坪台帳面では墳墓と記載されて居り、近くに団地も形成されたので昭和41年周囲を石積みにして境界を明にした。

村の外れの美女塚はかつて出征兵士の別れの場所であった。自動車もないその当時せめて村境まで我が子、我が夫を送り二度と故国の土を踏まぬとこの塚に登り最後の万才で壮途につかしめた。そして数十名の兵士は再び戻っては来なかった。塩井の住民としては忘れられない霊地でもある。

小野小町の悲恋物語りとして伝えられている伝説は次の通りである。

醍醐天皇(897-930)の御代京の都に深草の少将という好男子があった。彼は当時京中にて容姿端麗、歌道の名家であり絶世の美人小野小町に思をかけ、その思いをうちあけ夜な夜な九十九夜通った。けれども小町は返事をせず百晩も通い続けたならと思っていた。

それは晩秋のことで恋にやつれた深草の少将は吹き荒む木枯に彼は今一晩という日最早立つことは出来なくなった。

彼は悲しき思に咽び無情の小町を恨みつつあの世の人となったのである。かく思いつめた少将の恨小町の身に及んだのか哀れ小町は人の忌む病を煩い花をあざむきし彼女の美貌今いづくにである。

「花の色はうつりにけりな徒らに我が身世にふるながめせしまに」とはこの時の述懐であろう。

住みなれし京都をのちに旅の空に日毎に衰え行く己が姿をあわれみつつすげの小笠を手にして都から去ったのである。

「昭和43年発刊 塩井郷土誌 塩井公民館内塩井郷土誌編集委員会」より